沿 革

 神護護国聖宝寺慈徳山萬蔵院は、約1.130年前の貞観12年理源大師が開創。当時には、猿島郡の中央に本尊を安置し、四方に八間の大道を通じ門前に山伏を住まわせ,前街後街を作り、都から工人多数を移して、この地方の文化的中心を形成したと伝えられる。
 徳川時代には「満蔵院」と言われた。天領に定められ、地方最高の御朱印と大名の格式を与えられいた。皇室からは中納言以上の待遇を与えられた。また総本山移転地常法檀林所として、本山の行務の代行、子弟の教育のための地方大学の役割を持って、境内6万坪、坊舎数十を有していたと言われる。
 しかしその後文化年間に火災に見舞われ、大手門ならびに塔を残して(塔は明治33年焼失)、他はすべて鳥有に帰した。現在の本堂、鐘楼等はその後文政以後に建設されたものである。    明治維新後、檀徒の心は解散し、土地は荒れ屋根は抜けて将に滅亡に瀕していたが、明治25年総本山特命住職として第72世の中川大俊僧正が入寺し、生涯をかけて寺門の興隆と弟子の養成を計り、今日の萬蔵院を再興した。

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