神護護国聖宝寺慈徳山萬蔵院は、貞観12年(870年)理源大師が開創。 当時には、猿島郡の中央に本尊を安置し、四方に八間の大道を通じ、門前に山伏を住まわせ、前街後街を作り、都から工人多数を移して、この地方の文化的中心を形成したと伝えられています。
徳川時代には「満蔵院」と言われました。 天領に定められ、地方最高の御朱印と大名の格式を与えられていました。 皇室からは中納言以上の待遇を与えられました。 また総本山移転地常法檀林所として、本山の行務の代行、子弟の教育のための地方大学の役割を持って、境内6万坪、坊舎数十を有していたと言われています。
徳川時代には「満蔵院」と言われました。 天領に定められ、地方最高の御朱印と大名の格式を与えられていました。 皇室からは中納言以上の待遇を与えられました。 また総本山移転地常法檀林所として、本山の行務の代行、子弟の教育のための地方大学の役割を持って、境内6万坪、坊舎数十を有していたと言われています。
当山第52世雄弁上人(1658~1729)が享保年間(1725)に猿島阪東三十三カ所を開きました。 萬蔵院はその第十七番札所です。
しかし、その後、文化年間に火災に見舞われ、大手門ならびに塔を残して(塔は明治33年焼失)、他はすべて烏有に帰しました。
現在の本堂・鐘楼等は文政以後に建設されたものです。
明治維新後、檀徒の心は離散し、土地は荒れ、屋根は抜けて将に滅亡に瀕していました。 明治25年、総本山特命住職として第72世の中川大俊僧正が入寺し、生涯をかけて寺門の興隆と弟子の養成を計り、今日の萬蔵院を再興しました。
しかし、その後、文化年間に火災に見舞われ、大手門ならびに塔を残して(塔は明治33年焼失)、他はすべて烏有に帰しました。
現在の本堂・鐘楼等は文政以後に建設されたものです。
明治維新後、檀徒の心は離散し、土地は荒れ、屋根は抜けて将に滅亡に瀕していました。 明治25年、総本山特命住職として第72世の中川大俊僧正が入寺し、生涯をかけて寺門の興隆と弟子の養成を計り、今日の萬蔵院を再興しました。
第73世中川祐俊は総本山長谷寺第80世化主・真言宗豊山派
第26世を任した。
現住職は第74世中川祐聖です。
第26世を任した。
現住職は第74世中川祐聖です。
理 源 大 師
平安前期の真言宗の僧。 東大寺東南院、醍醐寺を創建。 東密小野流の開祖。
平安前期の真言宗の僧。 東大寺東南院、醍醐寺を創建。 東密小野流の開祖。
三代将軍徳川家光からの御朱印状
観 音 堂
室町末期の建築手法で建造されており、
寛文3年(1663年)の棟札が残っています。
室町末期の建築手法で建造されており、
寛文3年(1663年)の棟札が残っています。
慈徳山萬蔵院の景 (明治38年に製作された版画)